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ジェネレーションギャップについて思ったこと


最近エイジズムについて調べていく中で、ジェネレーションギャップってなんだろうと思ったので雑多な考えを書いておく

ジェネレーションギャップ

基本的にはネタとして使うことが多そう。インターネット老人会話になり「IEのバグが多かった」とか「昔はjQueryでコーディングしていた」とか「prototypeなんて書いたことない」など様々だ。

よくあるパターンだと、音楽の話だろうか。「80年代の音楽」とかそういうの。もっと言うと昔はCDで音楽を聞いていたが、今はSpotifyで聞いているなど「世代」という枠組みで話をしている。

おっさんホイホイとかもそうだろうか。昔流行っていたものが令和に蘇るみたいなのもある。

ここまでSNSが普及して、情報が何でも参照できるし消化もできるようになったことで年齢問わずに様々な世代を超えたものに触れることができるような気もする。

こうした現象を見ると、「もしかして、ジェネレーションギャップなんて、もう存在しないのでは?」と思ったりした。

知識の共有と経験の断絶

ジェネレーションギャップは、「自分は知っている」という点に焦点があたっているきもした。

「知っている」ことと「経験している」ことの間には、大きな隔たりがありそう。哲学的にいうと、「知識の共有」と「経験の断絶」の違い。知覚の現象学でメルロ=ポンティがなんかそんなことを言っていたような気がしている。単に情報を知識として持つだけでなく、特定の時代をその身体で「生きた」経験は、その人の世界に対する感覚、いわば「肌触り」を決定づける的な。。。

価値観

ジェネレーションギャップはしばしば価値観の違いとして指摘される気もする。ここでエイジズムの考え方が出てくる。

ジェネレーションギャップをネタとして使う分には、関係性が良好ならまだいいかもしれないが、行き過ぎると「最近の若者は根性がない」「年寄りは頭が固い」といったような価値観の違いが出てくる。「最近の若い人はすごい」というのも一見褒め言葉っぽく聞こえるが、壁を作ってしまっている発言にもなりうる。

更にいくと差別とかそういう話にもなるのだろう。。。

「存在する」のではなく「発生する」

こう考えてくると、ジェネレーションギャップは、存在するものではなく、異なる時代経験を持つ人々がコミュニケーションをとる際に「発生するもの」と捉える方が適切かもしれないなと。

それぞれの世代が持つ「経験に根差した暗黙の前提」や「身体化された感覚」の違いが、ふとした瞬間に認識のズレや共感の限界として現れる。それが、ジェネレーションギャップの姿なのかもしれない。