思考は能動的?受動的?
何かを考えることは、今まで能動的に行っているものだと思っていたけど、ドゥルーズの「差異と反復」を読んでいる中で、例えば普段のエンジニアの作業で、設計を考える、命名を考える、コーディングするなどでもこれらの多くは、実は「考えている」のではなく既知のパターンや経験則を当てはめているだけかもしれない。何か未知な領域に触れたときに強制的に思考するのだと感じるようになった。
再認は思考ではない
ドゥルーズは「再認」と「思考」を区別している。再認とは「これは○○である」と同定する働きのことだ。「これはContainer/Presentationalパターンだ」とか「これはシングルトンパターンだ」みたいに、既知のカテゴリーに当てはめて処理すること。
ドゥルーズはこれを思考とは区別していて、再認には新しさがないと言っている。既にある枠に振り分けているだけで、枠自体は変わらない。思考が始まるのは、この振り分けが失敗したとき、つまり「これは何だかわからない」という状態に置かれたときだと言っている。
弁証法も思考ではないのか
ヘーゲルは弁証法を提唱している。これはものごとの内部に矛盾を見出し、その矛盾を乗り越えることでより良いものに至るという思考の枠組みだ。技術的なトレードオフを検討してより良い設計に至るといったことはよくあるし、馴染みがある。
ただドゥルーズはこれも退けている。弁証法では、ものごとの違いを「矛盾」として扱い、その矛盾を乗り越えることで「より良い正解」に至ろうとする。でもそうすると、出発点にあった違いは矛盾として処理され、最終的には一つの答えの中に解消されてしまう。もともとあった違いそのものは消えてしまう。ドゥルーズにとってこれは、違いに向き合ったことにはならない。
思考は強制的に起こる
ではドゥルーズにとって思考とは何か。矛盾を解消するプロセスでもなく、パターンに当てはめることでもなく、どちらでも処理できないものに出会ったときに強制的に起動するものだと言っている。自分からプロセスを回すのではなく、向こうからやってくる。
ドゥルーズによれば、普段の認識は複数の能力(見る、触る、記憶する、判断するなど)が調和的に協力して「これは○○だ」と同定している。コードレビューでも、目で構造を見て、過去の経験と照合して、「ああ、これはあのパターンね」と処理できる。このとき各能力は協調してスムーズに動いている。
しかし何か既存の枠に収まらないものにぶつかると、この協調が壊れる。見ているものと過去の経験が噛み合わない。判断しようにもカテゴリーがない。ある能力が処理できなかったものが次の能力に強制的に渡されていく。感性が捉えたけど言語化できないものが想像力を動かし、それでも処理しきれないものが思考を動かす。この連鎖がドゥルーズの言う思考の始まりだ。
確かにその側面もありそうだなと思う。なんだかわからないものに遭遇したら調べたり、それについて考えたりする。
能動的? 受動的?
今まで考えることは能動的だと思っていた。それがある枠の中での処理であって思考ではないというのを読んだとき、そうかもしれないと思った。ただ、そうでもない気もちょっとしている。再認と思考の間にはグラデーションがあって、ドゥルーズが描くほど綺麗に分けることはできない気がしている。
まとめ
それでも、ドゥルーズの議論を知ったことで一つ変わったことがある。「何か変だけど言語化できない」という状態を、知識不足や経験不足として片付けなくなった。あの居心地の悪さは、思考が始まろうとしている合図なのかもしれない。そう思うだけで、違和感に留まることへの抵抗が少し減った。